香港のホテルロビーのために制作された陶芸作品が、数か月後にはロンドンの美術館で異なる空間に合わせて展示される。
こうした事例を見ると、「ホテルのアート委嘱」とは、完成した作品を購入して飾ることとは少し異なる仕組みであることが分かります。

2026年、ザ・ペニンシュラ・ホテルズ(The Peninsula Hotels)のグローバルアートプログラム「Art in Resonance(アート・イン・レゾナンス)」で委嘱されたのが、陶芸家アルベルト・ヨナタン・セティアワン(Albert Yonathan Setyawan)氏の「Metamorphic Modulation(メタモルフィック・モジュレーション)」です。

作品はザ・ペニンシュラ香港(The Peninsula Hong Kong)で初公開された後、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum、以下V&A)の空間に合わせて再構成されました。重要なのは、「ホテルで評価された作品が後から美術館へ進出した」という単純な構図ではありません。ザ・ペニンシュラとV&Aが委嘱段階から協働し、ホテルと美術館という異なる空間で一つのプロジェクトを展開している点に、この事例の特徴があります。

この記事では、ホテル、V&A、作家がそれぞれどのように関わったのかを整理しながら、ホテルや商業施設が工芸・アートを委嘱するときに何を考えるべきなのかを具体的に読み解きます。

香港ペニンシュラの陶芸委嘱作品は、なぜロンドンの美術館に再登場したのか

結論として、「Metamorphic Modulation」がV&Aで展示された背景には、ザ・ペニンシュラとV&Aの継続的な協働があります。2026年は両者のパートナーシップ2年目にあたり、V&Aは作品完成後に外部から評価したのではなく、委嘱段階からプロジェクトに参加していました。

ザ・ペニンシュラ公式は、2026年のArt in Resonanceについて、V&Aとの協働が2年目を迎えたと説明しています。セティアワン氏の作品も、V&Aとのパートナーシップのもとで制作・発表されたサイトスペシフィック作品として位置づけられています。
(参照:The Peninsula Announces 2026 Edition of Art in Resonance Programme|The Peninsula Hotels)

Art in Resonanceとはどんなプログラムか

「Art in Resonance」は、ザ・ペニンシュラ・ホテルズが2019年に開始した委嘱型のグローバルアートプログラムです。ザ・ペニンシュラ公式では、新進・中堅のクリエイターに、新たな公共作品を実現するためのリソース、専門性、キュレーションの機会を提供するプログラムと説明しています。
(参照:Art in Resonance|The Peninsula Hotels)

2026年版は香港のアーツ・マンス(Arts Month)に合わせてザ・ペニンシュラ香港で開催され、香港のアーティスト、アンジェル・ホイ(Angel Hui)氏、東京を拠点とするインドネシア出身の陶芸家セティアワン氏、香港の建築家・アーティスト、ウィリアム・リム(Dr. William Lim)氏による3つの委嘱作品が発表されました。

セティアワン氏の作品については、V&Aの東南アジア担当キュレーターであるルイス・コプルストン(Dr Louis Copplestone)氏がキュレーションを担当しています。ここで注意したいのは、コプルストン氏が作家選定のすべてを担ったとまでは公式情報から確認できないことです。確認できるのは、セティアワン氏の委嘱作品をコプルストン氏がキュレーションしたという点です。
(参照:2026 Art in Resonance Programme|The Peninsula Hotels)

作品「Metamorphic Modulation」の構成

© Victoria and Albert Museum, London, 2026

「Metamorphic Modulation(メタモルフィック・モジュレーション)」は、700点を超える手作りの陶芸パーツから構成された大規模なインスタレーションです。

作品を構成する形は粘土で手作業によって造形され、それをもとにスリップキャストによって赤いテラコッタとして反復制作されています。スリップキャストとは、泥漿(でいしょう)と呼ばれる液状の粘土を型へ流し込んで成形する方法です。

完成したパーツには釉薬(ゆうやく)を施さず、赤いテラコッタ本来の色と質感を生かしています。造形は葉を思わせる形と花を思わせる形の2種類を中心とし、それらが反復されることで、見る位置や光の当たり方によって作品の印象が変化します。
(参照:Albert Yonathan Setyawan – Metamorphic Modulation|V&A)

編集部コメント

この作品を「700点以上の陶芸作品だから大規模で価値がある」と見るだけでは、本質を捉えきれません。セティアワン氏の表現では、同じ形を反復して制作する行為そのものが作品の構造になっています。器や単体の彫刻として陶を見るのではなく、陶という素材を反復させることで空間そのものを構成している点に注目したい作品です。

V&Aは関連イベントで、セティアワン氏がこの制作姿勢を「アート・レイバー(art labour)」と呼び、型を用いた複製を通じてオリジナルのオブジェクトを生み出す考え方について語るトークも企画しています。したがって、「アート・レイバー」という言葉を用いる場合は、作家の思想を示すV&Aの公式説明に基づく表現として扱うのが適切です。
(参照:Friday Late: Awakenings|V&A)

セティアワン氏は1983年、インドネシア・バンドン生まれ。バンドン工科大学で陶芸を学び、京都精華大学大学院で陶芸を専攻し、現在は東京を拠点に活動しています。
(参照:アルベルト・ヨナタン・セティアワン|MIZUMA ART GALLERY)

© Victoria and Albert Museum, London, 2026

委嘱から展示まで、誰がどう関わったのか

このプロジェクトでは、「委嘱プログラムを運営するホテル」「キュレーションに関わる美術館」「作品を制作する作家」がそれぞれ異なる役割を担っています。ホテル単独で作品を選定して展示した事例ではない点が重要です。

関係者・役割表

関係者 確認できる主な役割
ザ・ペニンシュラ・ホテルズ/ザ・ペニンシュラ香港 Art in Resonanceの運営、作品の委嘱、制作に必要なリソースや専門性の提供、ホテルでの展示
V&A/ルイス・コプルストン氏 セティアワン氏の作品のキュレーション、ザ・ペニンシュラとの協働、V&Aでの再展示
アルベルト・ヨナタン・セティアワン氏 「Metamorphic Modulation」の構想・制作
キャリー・チャン氏 V&A版の展示でコプルストン氏と協働
カティア・スパイアーズ氏 V&A版展示のプロデュース

V&A公式は、ロンドンでの展示についてコプルストン氏がキュレーションし、キャリー・チャン氏との協働、カティア・スパイアーズ氏のプロデュースによるものと明記しています。
(参照:Metamorphic Modulation|V&A)

この役割分担から読み取れるのは、ホテルが美術館から「お墨付き」を得たという構図ではありません。企業と文化機関が共同で企画し、作家の表現と空間を結びつける体制を最初からつくっていたと見る方が、実態に近いでしょう。

美術館の専門家が企画段階から加わることで、ホテル単独の作品選定とは異なり、作家の制作背景や作品の文化的・美術的文脈まで含めたキュレーションを組み立てることができます。これは、法人が工芸やアートを扱う際にも参考になる仕組みです。

香港のホテルロビーと、ロンドンの美術館展示室——同じ作品はどう変わったか

「Metamorphic Modulation」は香港とロンドンで同じタイトルの作品として展示されていますが、展示構成まで完全に同じではありません。V&Aは、香港で初公開されたインスタレーションを同館の空間に合わせて適応・再構成した(原語表記:adapted for the V&A)と説明しています。

香港での展示では、ザ・ペニンシュラ香港の「ザ・ロビー(The Lobby)」に作品専用の構造体が設けられました。ザ・ペニンシュラ公式によれば、その構造は鑑賞者を囲み、陶芸パーツによって生まれる影が、彫刻、構造物、鑑賞者の境界を曖昧にするよう設計されています。
(参照:The Peninsula’s 2026 Global Art in Resonance Programme|The Peninsula Hotels)

香港での2026年版Art in Resonanceの作品群は3月17日に公開され、5月5日まで展示されました。

2026 HSH Management Services Limited. (The Peninsula Hotels)

一方、V&Aでは「Metamorphic Modulation」がV&A South Kensingtonの彫刻ギャラリー(Room 21a)に展示されています。V&A公式の個別イベントページでは、会期は2026年9月15日から10月18日まで、入場無料と案内されています。
(参照:Albert Yonathan Setyawan – Metamorphic Modulation|V&A)

同作はロンドン・デザイン・フェスティバル2026(London Design Festival 2026)に合わせたV&Aの「アウェイクニングス(Awakenings)」プログラムにも位置づけられています。

ただし、ここで一つ線引きしておく必要があります。香港で使用された陶芸パーツがすべてそのままロンドンへ運ばれたのか、一部が新たに制作されたのかについては、公開されている公式情報から確認できません。

確認できるのは、香港で初公開された作品がV&A向けに再構成(アダプト)されたということです。したがって、「ホテルにあった作品をそのまま美術館へ移した」と表現するより、作品の核となる考え方や素材を維持しながら、異なる建築空間との関係を再構成したと捉える方が正確です。

編集部コメント

工芸作品を「完成した物」としてだけ捉えると、移設は単なる運搬に見えます。しかし、サイトスペシフィックな作品では、光、壁、距離、人の動線まで含めて作品体験が成立します。今回興味深いのは、ホテルから美術館へ移ったことそのものではなく、場所が変わるたびに作品と空間の関係が組み直されている点です。

ホテルでは、宿泊、食事、待ち合わせ、移動など別の目的を持つ人々が作品に出会います。一方、美術館では作品を見ること自体が来館目的の一つになります。同じ造形でも、置かれる環境によって鑑賞の時間や距離、作品への注意の向き方は変わります。

ただし、「ホテルでは非日常の演出として見られ、美術館では作品構造に集中して見られる」と一律に断定することも避けるべきでしょう。実際の鑑賞体験は人によって異なります。ここでは、空間の用途が変われば、作品との接し方にも異なる条件が生まれると考えるのが適切です。

ホテルのアート委嘱は、何を目的に行われるのか

ホテルのアート委嘱には、空間装飾だけではなく、作家支援、文化交流、新しい作品の制作、来訪者との接点づくりなど複数の目的があります。企業のブランド形成と結びつく場合もありますが、それだけを目的として語るのは適切ではありません。

ザ・ペニンシュラはArt in Resonanceについて、文化的表現を支援し、新進・中堅のクリエイターが新しい公共作品を実現するためのリソースや専門性、キュレーションを提供するプログラムと説明しています。

また、V&Aとの協働については、芸術的な交流や国際的な文化交流を重視する姿勢を示しています。
(参照:Art in Resonance|The Peninsula Hotels)

企業側から見れば、このような文化活動が結果としてブランドの認知や施設の独自性につながることは考えられます。しかし、それはあくまで結果の一つです。今回の事例から直接確認できる中心的な要素は、既存作品を購入するのではなく、作家が新しい作品を制作できる環境を企業と文化機関がつくっていることです。

これは工芸分野でも重要な視点です。

工芸を企業空間へ導入する際、「どの作品を買うか」だけを考えると、すでに存在する作品と空間を後から組み合わせる発想になりやすくなります。一方、委嘱制作では、「この場所で何を体験してほしいか」「この素材や技法で何ができるか」という段階から、作家と空間の関係を設計できます。

もちろん、すべての案件で委嘱制作が適切とは限りません。既製作品の購入やレンタルの方が、期間、予算、維持管理の面で合理的な場合もあります。

比較項目 既製作品購入 レンタル・期間展示 委嘱制作
作品 完成済み 既存作品が中心 新作が中心
空間との関係 完成後に調整 展示時に調整 構想段階から反映しやすい
作家との協働 比較的少ない 案件による 大きい
キュレーション 任意 案件により重要 規模に応じて重要
設置計画 購入後に検討 展示時に検討 制作と並行して設計可能
移設 比較的検討しやすい 当初から想定される場合がある 再構成が必要になる場合がある

どの方法が優れているという話ではなく、目的と空間に応じて方法を選ぶことが重要です。

企業・ホテルがアート委嘱を検討する際に確認すべきことは?

委嘱制作を検討する際に、最初から「誰に頼むか」だけを決めるのはおすすめできません。まず整理したいのは、その空間で何を実現し、誰にどのような体験をしてほしいのかです。

目的が定まった後に、作家選定、キュレーション体制、素材、設置方法、予算、スケジュールなどを検討していく方が、実務上も判断しやすくなります。

  • 導入目的:空間体験、地域との関係づくり、文化支援、企画展示など何を目的とするか
  • 主な鑑賞者:宿泊客、店舗利用者、社員、取引先、地域住民など、誰が作品を見るのか
  • キュレーション体制:社内選定か、専門家・ギャラリー・美術館等と協働するのか
  • 作家選定:知名度だけでなく、空間や素材との適合性、制作体制を確認する
  • 素材と設置条件:重量、固定方法、人との距離、光、温湿度、清掃条件を確認する
  • 搬入・施工:搬入経路、施工担当、設置・撤去の責任範囲を整理する
  • 安全・保険:転倒、接触、破損などのリスクと対応方法を確認する
  • 予算:作品制作費だけでなく、輸送、施工、照明、保険、保守まで含めて考える
  • スケジュール:制作期間、試作、施工、搬入、展示期間を逆算する
  • 権利関係:撮影、SNS、広告、Webサイト、映像などで作品画像を使用できる範囲を確認する
  • 展示後の扱い:保管、返却、移設、再展示などを事前に決める
  • 広報:作家名・作品名の表記や、共同発信の方法を整理する

特に工芸作品は、陶、漆、木、金属、紙、染織など素材ごとに取り扱い条件が大きく異なります。「作品が空間に合うか」だけでなく、「その空間で安全に維持できるか」まで確認しなければなりません。

また、委嘱制作では、作品を購入したからといって著作権まで自動的に企業へ移転するわけではありません。完成後の撮影や広告利用、SNS投稿、動画への使用などを想定している場合は、制作契約の段階で確認しておく必要があります。

工芸ジャポニカ編集部の視点

今回のザ・ペニンシュラ×V&Aの事例から最も参考にしたいのは、「最初に有名作家を探す」という発想ではありません。まず企画の目的と場所を定め、そのうえで作品、作家、キュレーション、展示環境を一つのプロジェクトとして組み立てている点です。企業が工芸を導入するときも、ここから考える方が、作家にとっても施設にとっても無理のない協働になりやすいでしょう。

工芸ジャポニカでは、ホテル・旅館・店舗・オフィスなどへの工芸・アート導入について、既製作品の選定やレンタルだけでなく、作家・工房との協働を含めた企画段階からの相談も受け付けています。

よくある質問

ホテルのアート委嘱と「Metamorphic Modulation」について、特に確認しておきたいポイントを整理します。

Q1. セティアワン氏の作品は、香港とロンドンで同じ実物が展示されているのですか?
香港版とV&A版は同じ展示構成ではありません。V&Aは作品を同館向けに再構成(アダプト)したと説明しています。ただし、個々の陶芸パーツがすべて香港から移送されたものか、新たに制作されたものを含むかまでは、公表情報から確認できません。
Q2. Art in Resonanceとはどんなプログラムですか?
ザ・ペニンシュラ・ホテルズが2019年に開始した委嘱型のグローバルアートプログラムです。新進・中堅のクリエイターが新しい作品を実現するためのリソース、専門性、キュレーションを提供すると公式に説明されています。
Q3. なぜホテル委嘱作品がV&Aで展示されたのですか?
V&Aは作品完成後に関与したのではなく、委嘱段階からザ・ペニンシュラとのパートナーとして参加していました。セティアワン氏の作品はV&Aとの協働で委嘱され、香港で初公開された後、V&A向けに再構成されています。
Q4. V&Aでの展示はいつまで見られますか?
V&A公式の個別イベントページでは、2026年9月15日から10月18日までと案内されています。会場はV&A South Kensingtonの彫刻ギャラリー(Room 21a)で、入場は無料です。
Q5. 企業がアートや工芸を委嘱するとき、最初に何を決めるべきですか?
まず、誰に何を依頼するかではなく、その空間で何を実現したいのか、誰にどのような体験を提供したいのかを整理することが重要です。その後に作家選定やキュレーション体制、予算、施工条件を検討します。
Q6. セティアワン氏はどんな作家ですか?
1983年インドネシア・バンドン生まれ、東京を拠点に活動する陶芸家です。バンドン工科大学と京都精華大学大学院で陶芸を学び、反復、パターン、素材性、瞑想的な経験などを主題とする陶芸作品やインスタレーションを制作しています。

「Metamorphic Modulation」の事例から見えてくるのは、ホテルのアート委嘱が、完成品を購入して空間へ置くことだけではないということです。

ザ・ペニンシュラとV&Aの場合、文化機関が完成後に作品を評価して美術館へ引き上げたわけではありません。両者は委嘱の段階から協働し、セティアワン氏の作品は香港のホテル空間で発表された後、V&Aという異なる環境に合わせて再構成されました。

この違いは、企業が工芸やアートとの関わり方を考えるときにも重要です。

工芸の価値は、完成した「物」だけにあるわけではありません。どの素材を用い、誰が制作し、どの場所に置き、人がどのように出会うのか。その一連の関係によって、作品が持つ意味や体験は変わります。

「どんな作品を置くか」の前に、「この場所で、作家と何をつくりたいのか」を考える。

ホテル、店舗、オフィスなどで工芸を活用する際にも、この順序を意識することで、単なる装飾ではなく、空間と作品の双方に理由のある企画へ近づけるのではないでしょうか。

Share.

日本の伝統文化の魅力を世界へ発信する専門メディア「Kogei Japonica」編集長。アート・メディア・テクノロジー領域を横断する専門家として、複数のデジタルメディアの統括や、国内外の芸術祭を支援するデジタルプロジェクトの責任者を務める。
最先端のAI・デジタル表現にも深く精通しており、「伝統工芸」と「テクノロジー」を掛け合わせることで、工芸のサステナビリティと新たな文化発信のあり方を推進。人間国宝から若手作家まで現代の工芸シーンにおける一次情報や現場でのリサーチを重んじ、独自の編集視点とメディア運営の知見を通して、日本の工芸文化の「今」を深く、分かりやすく伝えている。

Exit mobile version