第61回ヴェネチア・ビエンナーレ 日本館|速報パネル

展覧会名 第61回国際美術展 ラ・ビエンナーレ・ディ・ヴェネツィア
会期 2026年5月9日(土)〜11月22日(日)
プレオープン 2026年5月6日(水)・7日(木)・8日(金)
会場 ジャルディーニ(Giardini)・アルセナーレ(Arsenale)ほかヴェネツィア市内各所
全体テーマ In Minor Keys(イン・マイナー・キーズ)
総合キュレーター コヨ・クオウ(Koyo Kouoh)※2025年5月逝去、ビジョンを継承して開催
日本館アーティスト Ei Arakawa-Nash(アラカワ=ナッシュ・エイ)
日本館展示タイトル Grass Babies, Moon Babies(グラス・ベイビーズ、ムーン・ベイビーズ)
共同キュレーター 高橋瑞木(Takahashi Mizuki)、堀川理沙(Horikawa Lisa)
コミッショナー 国際交流基金(The Japan Foundation)

(参照:The Japan Pavilion Official WebsiteLa Biennale di Venezia

ヴェネチア・ビエンナーレ2026 日本館速報|まず何が重要か

2026年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館は、少なくとも三つの意味で「これまでと異なる日本館」です。選ばれたのは福島生まれでロサンゼルスを拠点とするパフォーマンスアーティスト、Ei Arakawa-Nash。展示タイトルはGrass Babies, Moon Babies。そして今年は日本館開設70周年という節目でもあります。

3つのポイントで読む日本館2026

① 日本国外を拠点とするアーティストと共同キュレーター陣による初の日本館

アーティストのArakawa-Nashはロサンゼルス在住、共同キュレーターの高橋瑞木はホンコンのCHAT(Centre for Heritage, Arts and Textile)のエグゼクティブ・ディレクター兼チーフキュレーター、堀川理沙はナショナル・ギャラリー・シンガポールのシニアキュレーターです。日本館の70周年という節目に、日本を外側から見つめる視点が前面に据えられました。
(参照:Japan Pavilion at the 61st International Art Exhibition|国際交流基金

② 全体テーマ「In Minor Keys」と日本館の共鳴

「小さな音への傾聴」を掲げる全体テーマと、赤ちゃん人形(baby dolls)と双子の子どもたちの誕生という着想を起点にした日本館の展示は、重ねて読むことができます。大きな声ではなく、ケアの所作と静かな循環で語ろうとしている点が、この日本館の重要な特徴です。

③ 工芸の視点から読む価値

展示の構造は、ものを「作る」だけではなく、「育てる・世話をする・受け渡す」という行為を軸にしています。これは轆轤(ろくろ)を回す反復や、染め物の水洗いの静かな動作にも通じる身体の哲学です。詳しくは後半のセクション「工芸の視点で読む」で論じます。

“In Minor Keys(イン・マイナー・キーズ)”とは何か

© La Biennale di Venezia 2023

「In Minor Keys」とは、音楽における短調(たんちょう)を指す言葉です。長調(ちょうちょう)が明朗で前進的な響きを持つのに対し、短調は陰影があり、余韻を引き、何かを内に抱えているような音域です。この言葉を2026年のビエンナーレ全体テーマに据えたのが、キュレーターのコヨ・クオウ(Koyo Kouoh)でした。

速報として押さえておきたい背景があります。クオウは2024年11月に芸術監督に指名され、同年12月3日に就任が公式発表されました。2025年4月8日付でテーマのキュラトリアルテキストをビエンナーレ会長に提出しましたが、同年5月10日に57歳で急逝しました。ビエンナーレは家族の了承のもと、彼女が構想したとおりに展覧会を実現するとしています。
(参照:Biennale Arte 2026: In Minor Keys|La Biennale di Venezia

Koyo Kouoh(コヨ・クオウ)がこのテーマに込めた視点

クオウはカメルーン出身でスイスで育ち、セネガル・ダカールでRAW Material Companyを共同設立し、その後ケープタウンのZeitz Museum of Contemporary Art Africa(Zeitz MOCAA)のエグゼクティブ・ディレクター兼チーフキュレーターを務めた人物です。

彼女のキュラトリアルテキストには、ジャズの即興性、カリブ海の思想、そして多様な植物が共存するクレオールの庭(Creole garden)への言及があります。「In Minor Keys」は、小さな声で語られてきたもの、主旋律ではなかった表現を丁寧に聴き取る展覧会として設計されました。悲しみと喜び、奇妙さと安らぎ、矛盾を崩壊させずに抱える能力——そうした感覚を扱う展示として位置づけられています。
(参照:Curatorial Text by Koyo Kouoh|La Biennale di Venezia

工芸ジャポニカの視点:なぜ工芸ファンにも関係があるのか

「マイナーキー(minor key)」という言葉を工芸の文脈で読み替えると、何が見えるでしょうか。

工芸の世界には、大きな声を出さない表現が数多くあります。茶碗の土の手触り、染め上がった布が乾く時間、箸置きの微細な重さのバランス——それらはいずれも、効率や速度とは無縁の「小さな周波数」で成立しています。クオウのテーマは、現代美術の語法を使いながら、工芸が長い時間をかけて育ててきた「静かな表現の哲学」と近い場所を目指しているように見えます。

クオウ自身が、アーティストたちが日常生活を作品の一部として扱い、部分と全体の美的に一貫した関係のなかで生きていることに触れている点も、この印象を強めます。工芸作家が土や木や糸と向き合う時間の感覚と、この言葉は重なります。

Ei Arakawa-Nash(アラカワ=ナッシュ・エイ)とは誰か

(c) The Japan Foundation,

速報として最初に押さえておきたい問いが「この人は誰か」です。結論から述べると、Arakawa-Nashは「パフォーマンス=客席に座って見るもの」という概念を解体し、観客・協力者・空間・歴史が渾然一体となって初めて成立する作品を作り続けてきたアーティストです。

福島生まれ、越境的に活動するアーティストとしての背景

1977年、福島生まれ。1998年にニューヨークへ移り、2019年にロサンゼルスへ拠点を移しました。現在はパサデナのArtCenter College of Designの大学院美術プログラムで教授を務めています。数年前に日本国籍を手放しており、現在は夫とともに双子の子どもたちを育てています。

「国籍を手放した後、ヴェネチアで日本を代表する機会はないと思っていた」という本人の言葉は、国家・代表性・アイデンティティというテーマが、今回の展示の底流にあることを示しています。
(参照:Ei Arakawa-Nash to represent Japan at the 2026 Venice Biennale|e-flux

パフォーマンス、共同性、参加性が作品の核にある

Arakawa-Nashの作品は「完成品を展示する」のではなく、「人が集まることで生まれる」タイプのものです。固定されたオブジェよりも、行為・音・関係性・即興が作品の素材になります。

戦後前衛の系譜——具体(グタイ)美術協会、東京フルクサス(Tokyo Fluxus)、ハプニングズ(Happenings)、ジャドソン・ダンス・シアター(Judson Dance Theater)、ウィーン・アクショニズム(Viennese Actionism)——を参照しながら、演者と観客の境界を無効化しようとしてきました。2021年のTate Modern・タービンホールでの参加型インスタレーションMega Please Draw Freelyは、その手法の代表例です。

速報段階で押さえるべき作家理解のポイント

  • ソロ展示である:ヴェネチア日本館として、一人のアーティストによる個展形式を取ります。
  • 共同キュレーションである:高橋瑞木・堀川理沙という二人のキュレーターがアーティスト自身の指名で参加し、三者の対話から展示が生まれています。
  • 周辺プログラムを含むプロジェクト型である:J. Paul Getty Museum(ロサンゼルス)、Kestner Gesellschaft(ハノーファー)、The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum(ニューヨーク)との連携が発表されており、日本館単体ではなく複数の機関と連携したプロジェクトとして展開されます。

日本館 “Grass Babies, Moon Babies” の見どころ

この展示タイトルを日本語にすると「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」となります。詩的な響きのなかに、いくつかの鍵が埋め込まれています。

タイトルが示す「草・月・赤ちゃん」のイメージ

展示の中心に置かれるのは、約200体の赤ちゃん人形(baby dolls)です。来場者はその人形を選び、ケアの行為を行います。するとQRコードが起動し、その人形に割り当てられた誕生日に紐づいた詩が生成される仕組みです。その誕生日は、アーティスト自身の個人的な歴史と、日本人・ディアスポラのコミュニティに影響を与えてきた歴史的な出来事へと接続しているとされています。
(参照:Grass Babies, Moon Babies 展覧会発表|日本館公式サイト

編集長考察
「草」と「月」というイメージについて、私なりの解釈を付け加えます。草は地面に根ざし、踏まれても蘇り、季節に従って枯れる存在です。月は遠くにありながら、時間の感覚を静かに刻む存在です。この二つの間に「赤ちゃん」を置くことで、生命と時間と記憶の循環が示唆されているように感じます。工芸の素材感覚——土は草が根ざす場所であり、窯焚きの夜にも月は変わらず空にある——と重ねてみると、また別の奥行きが開いてきます。

日本館建築と展示の関係

日本館の建物は1958年竣工、設計者はル・コルビュジエ(Le Corbusier)に師事した建築家・吉阪隆正(よしざかりゅうせい)です。重要なのは、吉阪がこの建築において「モビリティ(Mobility)」という概念を設計の核に置いたという点です。

森美術館での講演でArakawa-Nashは、「展示のコンセプトは、吉阪が日本館の庭と建物の設計に込めたモビリティという概念を中心に据えている」と語っています。庭と建物は分断されておらず、循環しています。来場者が赤ちゃん人形を持ち、動き回り、空間の内と外を往来する——そのような展示体験の構造は、建築そのものが持っていた思想と呼応しているといえるでしょう。
(参照:Urgent Talk 052: Ei Arakawa-Nash|森美術館

“constellation of voices and practices” とは何か

展示の公式テキストには、「声と実践の星座(constellation of voices and practices)が日本館の周縁に浸透する」という言葉が使われています。これは一人のアーティストの作品を「見せる」展示ではなく、複数の関係者・協力者・来場者の声や行為が展示を構成するという設計思想を示しています。

現時点で確認できているのは、アジア系アメリカ人アーティスト集団FAC XTRA RETREATとのコラボレーション、Gettyでのプレビュー公演「24 HOUR CARE」、野口勇財団との連携、会期終了後のKestner Gesellschaftへの巡回、さらにKorean Pavilion 2026がコラボレーターとして公表されていることです。会期中に詳細が明らかになりしだい、この項目に追記します。

開幕前に注目したい周辺情報

  • 三館連携:J. Paul Getty Museum(ロサンゼルス)、The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum(ニューヨーク)、Kestner Gesellschaft(ハノーファー)との共同制作プログラム。
  • Korean Pavilion 2026:国際交流基金の2026年3月19日付発表にコラボレーターとして明記されています。
  • クラウドファンディング:アーティスト主導によるクラウドファンディングが実施済みであることが日本館公式ニュースで案内されています。
  • プレオープン:5月6日・7日・8日に関係者向けプレオープン開催予定。開幕授賞式は5月9日(土)です。

工芸の視点で読む|この日本館は何を私たちに問いかけるのか

ここからは、工芸ジャポニカ編集長としての読み解きです。速報として必要な事実の整理は前項までで終えています。このセクションは、「なぜ工芸を追う私たちにとって、この日本館が他人事ではないのか」を論じる場所であり、以下は事実ではなく編集的な考察です。

ケアの身体性と工芸

今回の展示は「ケア(care)」という行為を中心に置いています。来場者は赤ちゃん人形を選び、抱き、世話をします。この身体の動作——抱く、運ぶ、整える、見守る——は、工芸における所作と重ねて見ることができます。

陶芸家が土を練る動作、漆器職人が箆(へら)で一層ずつ漆(うるし)を塗り重ねる動作、染め師が布を水にくぐらせてすすぐ動作——これらはすべて、素材を「操作する」のではなく、「関わる・応答する」という感覚で成立しています。展示が問いかけているのは、「あなたはこの小さなものに対して、どのような身体の応答を持てるか」という問いです。工芸の制作現場にも、同様の問いがあります。

素材・庭・建築・身体の循環

吉阪隆正が設計した日本館の庭は、建物の「外側」ではなく「内側」として機能しています。草が生え、光が動き、来場者が通り抜ける——その循環のなかに、展示は置かれます。

工芸における「場」の感覚と重ねると、この設計は茶室の露地(ろじ)に似た思想を持っているようにも見えます。これはあくまで編集上の比喩であり、建築史的な事実とは区別すべきものです。露地は茶室への単なる通路ではなく、茶の湯という行為の始まりの場です。日本館の庭もまた、展示の前段ではなく、体験そのものの一部として立ち上がる可能性があります。実際に展示がどのようにこの循環を使うのかは、開幕後の現地レポートで詳しく報告したいところです。

開幕後に深掘りしたい論点

この記事は速報として書いていますが、会期中に深掘りしたい問いをいくつか残しておきます。

  • 参加性の質:来場者が赤ちゃん人形に「関わる」体験は、どのような深さを持つのか。
  • 共同体としての展示:複数の声・実践の「星座」という構造は、誰が中心で誰が周縁という関係を本当に解消できているのか。
  • 野口勇の仕事との交差:野口勇財団との連携は、工芸と彫刻と素材の境界をめぐる問いを展示のなかでどのように扱うのか。
  • 代表性という問い:日本国外に拠点を置くチームが「日本を代表する」ことは、工芸の世界における産地・継承・帰属の問題とどのように響き合うのか。

開幕前速報としての実用情報と、会期中追記の方針

会期・プレオープン・公式情報の確認先

プレオープン 2026年5月6日(水)・7日(木)・8日(金)
公式開幕・授賞式 2026年5月9日(土)
会期末 2026年11月22日(日)
日本館公式サイト venezia-biennale-japan.jpf.go.jp
ビエンナーレ本体公式 labiennale.org
国際交流基金(英語) jpf.go.jp
報道問い合わせ venezia_press2026@jpf.go.jp

開幕後に追記すべき項目

この記事は「開幕前速報→会期中追記」を前提に設計しています。開幕後に追記予定の内容は以下のとおりです。

  • 現地写真と展示導線レポート
  • 赤ちゃん人形と詩生成の体験レポート(参加型インスタレーションの質)
  • 国際メディアの批評反応
  • パフォーマンス実施の日程と内容
  • Korean Pavilion 2026とのコラボレーション詳細
  • 受賞結果

情報が入りしだい、随時このページを更新します。

よくある失敗と対策

最後に、この種の記事を書く上での注意点を正直に書いておきます。

よくある失敗は、テーマ語をなぞるだけで終わること、作家紹介で記事が終わってしまうこと、そして解釈と確認済み事実が混ざることです。本記事では、「基本データと一次情報に基づく事実」を前半で整理し、「工芸メディアとしての読み解き」を後半のセクションに分けています。前半と後半の区別を意識しながら読んでいただければ幸いです。

まとめにかえて——「周縁に浸透する」という選択

Grass Babies, Moon Babiesの公式テキストには、「展示は日本館の周縁に浸透する(permeate the peripheries)」という言葉があります。中心を占領するのではなく、周縁から染み込む。大きな主張をするのではなく、小さな声で語りかける。

速報としての事実整理を踏まえたうえで、あとは実際の空間がどのように立ち上がるかを現地で確かめたいところです。工芸とは、ずっとそういうものであったと私は思います。美術館の展示室の中央に鎮座するのではなく、人の生活の周縁——食卓、棚、手の中——に浸透して初めて完成するものです。今年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館のタイトルと構造は、意図せずして、あるいは意図して、工芸の本質的な存在様式に近い場所を選んでいるようにも見えます。
開幕は5月9日です。

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日本の伝統文化の魅力を世界へ発信する専門メディア「Kogei Japonica」編集長。アート・メディア・テクノロジー領域を横断する専門家として、複数のデジタルメディアの統括や、国内外の芸術祭を支援するデジタルプロジェクトの責任者を務める。
最先端のAI・デジタル表現にも深く精通しており、「伝統工芸」と「テクノロジー」を掛け合わせることで、工芸のサステナビリティと新たな文化発信のあり方を推進。人間国宝から若手作家まで現代の工芸シーンにおける一次情報や現場でのリサーチを重んじ、独自の編集視点とメディア運営の知見を通して、日本の工芸文化の「今」を深く、分かりやすく伝えている。

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